2月11日 わたしはわたしの使いを遣わす

マラキ書3章1節~5節

1節の「わたしの使い」とは誰のことを指して言われているかについてはいくつかの解釈がなされてきました。1節に、「わたしの前に道を備える」と言われていることから、バプテスマのヨハネと考えることもできる。しかし、「わたしの使い」と言われている方が、「あなたがたが尋ね求めている主」、「契約の使者」とも呼ばれ、「突然、神殿に来る」と言われていることから、メシアなる主イエスであると考えることも出来る。また、2節では「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。」と言われていることから考えると、このことは終末的預言であり、再臨される主について言われているともとれる.
実は、この3章で言われている「わたしの使い」について、明確に分かることは、—時的な人物を指しているようであるが、同時に、時間に縛られない方として語られており、その方のなされることは「きよめる者として座に着き」(3)とあるように、レピ人の子ら(祭司)をはじめ、人々をきよめてくださるために来られるお方と言うことが分かる。人がきよめられるということは、人の業ではなく、明らかに主の御業であると言うことである。
主イエスは、私たちの罪の贖いのために来てくださり、私たちを全くきよめてくださることのおできなるお方であるということを覚え、主のきよさにあずかる者とならせて頂きたいと思います。

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