3月17日 イエスの悲しみと祈り

マタイの福音書26章36節~46節

イエスは弟子たちと共にゲッセマネに来られると,ペテロとヤコブとヨハネの三人を連れて奥へと進んで行かれました.するとイエスは急に悲しみもだえ始められました.なぜでしょうか.それは,イエスが祈りつつ「わが父よ,できることなら,この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(39)と言われたように,迫りくる死を前にした苦しみ,悲しみのためでありました.その悲しみの中でイエスは,「しかし,わたしが望むようにではなく,あなたが望まれるままに,なさってください」(39)と,父なる神にずべてをゆだねられていきました.
真の深い悲しみは主の御前へ,祈りへと導かれていくということを思います.イエスは祈りをささげている間,ペテロたちに「わたしは悲しみのあまり死にそうです.ここにいて,わたしと一緒に目を覚ましていなさい」(38)と菖われましたが,彼らは一時間として目を覚ましていることが出来ず,眠り込んでしまいました(40).
ゲッセマネの出来事は,今日の私たちに,悲しみの中に祈りをささげていくということには,共に祈りをささげていく人が必要であることを教えています.私たち一人一人は弱い者でありますが,だからこそ互いに覚えて主の御心を求めて祈り合うことが重要なのです.

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