7月20日 聖餐と愛餐の交わり(2)

コリント人への手紙第一11章17節~34節[ビデオメッセージは⇒こちら
主の晩餐(聖餐)について、パウロは「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。」(23)と言っているように、このことは主が命じられたことであり、聖餐を行う意義についても主イエスに起因していることを言っています。パンを裂き、杯を飲むことは、主が、十字架の上でご自身のからだを裂かれ、その血潮が流され、罪の贖いのためにいのちをもって犠牲となられたことを覚え、「主が来られるまで主の死を告げ知らせる」(26)ためのものでした。この聖餐が行われる度に、キリストの犠牲を覚えることが重要であり、パウロは「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。」(29)と忠告しました。「みからだ」とは、キリストのからだであり、この文脈からキリストのからだなる教会を指しており、主にある兄弟姉妹を指して言われたことでした。
聖餐と共に行われる愛餐(食事)が、我先に食べ出したり、貧しい者が顧みられることがなく、行われていたことを戒めたのでした。パウロはこの問題に、「しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。」(31)、「ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせしなさい。」(33)と勧めました。
これらのことは単純なことですが、これこそキリストの犠牲的な心を反映したものであり、いつもキリストの心で接することが求められているということを覚えたいと思いまず。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です